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同じ演奏を聴いて人によって評価が分かれるのは何故か?

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同じ演奏を聴いて人によって評価が分かれるのは何故か?

私はティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団コンビを応援しているので、彼らについて他の人がどう言っているのか、ネットや雑誌などを見ます。そこで以前から非常に興味深いと思っていたのは、特にマーラーの録音が顕著ですが、

評価が分かれる

ということ。かなりの絶賛している層が存在する一方で、聴いたけれどもピンと来なかったという人、はたまたいかがなものかと思うという意見も結構見かける。

この違いはどこから来るのだろうか?

例えば、サンフランシスコのように街全体が「MTT is great.」で固まっていると、ほぼ評価が分かれたりしないから、そういう「マジョリティ意見の勢い」の力というのは一つあると思います。

もう一つはライブの力。ライブを体験してしか伝わらない部分が意外とあり、そこで体験したものが、録音を聴くにあたっても影響している。これも確実にあると思います。

また彼らのマーラーの特殊性として、ディスクの録音レンジ等の作り込みも要因の一つ。これはオーヲタ(オーディオ・オタク)が総じて高評価であることから窺えます。

でも果してそれだけなのだろうか?

ここ数年そんなことをつらつらと考えていたところ、面白い記述に出会いました。

それは、「思考の整理学」外山滋比古著(ちくま文庫)の一節。文学についてなのですが、私の目に留まったのは、

人間は、正本に対して、つねに異本をつくろうとする。Aのものを読んで、理解したとする。その結果は決してAではなく、A’、つまり異本になっている。文学が面白いのはこの異本を許容しているからである。[醗酵]

これは読書を「音楽を聴く」ことに置き換えても、そのままあてはまるのではないでしょうか。

同じAという音楽を聴いても、Aとは異なるA’ になっている。一人ひとりの聴いている音楽が違う。

これで同じ音楽を聴いたとき、単なる好みの問題を超えて評価が分かれることの説明がつきます。

音楽を聴くときに、聴き手の側が持っていたものやその人の思考が付加される。そう考えると、「音楽を聴く」という行為はとてもクリエイティブ。何か身が引き締まる思いがするというか、せっかくならできるだけ豊かなA’ でありたいもの。

そしてこれは逆に考えると、いろんなA’ を許容する演奏こそが「良い演奏」とも言えるのではないかと思います。

外山氏はまた、「音楽を聴く」ことのみならず、「曲の解釈」を考える際にもあてはまるような指摘をしています。

諸説紛々の解釈のある文章や詩歌の意味はその諸説のうちの一つではなくて、諸説のすべてを含めたものなのではないか(ウィリアム・エンプソン)[醗酵]
本を読むにしても、これまでは“正解”をひとつきめて、それに到達するのを目標とした。その場合、作者、筆者の意図というのを絶対とすることで、容易に正解がつくり上げられる。それに向かって行われるのが収斂的読書である。それに比して、自分の新しい解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。収斂派からは、誤読、誤解だと非難される。しかし、読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。古典は拡散的読みによって形成されるからである。筆者の意図がそのままそっくり認められて古典になった作品、文章はひとつも存在しない [拡散と収斂]

日本はとかく「それはベートーヴェンの意図ではない」みたいな話になりがち(何故か特にベートーヴェンで論争が起きる)なので、この指摘は演奏家、評論家、聴衆のすべてに対し、示唆に富んでいるのではないでしょうか。

最後に「発想」について

(発想)それ自体がおもしろかったり、おもしろくなかったりするのではなく、それが結びつける知識・事象から生まれるものがおもしろかったり、おもしろくなかったりするのである。(中略)発想が扱うものは、周知、陳腐なものであってさしつかえない。そういうありふれた素材と素材とが思いがけない結合、化合をおこして、新しい思考を生み出す。[触媒]

ティルソン・トーマスがやっていることは、まさにこの「結びつける」こと。一種の“編集”なのだと思いました。

(2010.10.9)

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